「ヨガは運動ではない」というコラムを読みました。
強い言葉で書かれているタイトルにびっくりしました。
近ごろ、センセーショナルな言葉でなにかを言い切ってしまう読みものや人をよく見かけます。
(たしかにヨガは運動ではありません。でもコラムに書かれている内容とは違った意味で、です)
有名人が目の前に現れて、あなたの悩みに対し「これが正解です」と言ったらどうでしょう?
やっぱり、なにか指針を与えられると安心しますか?
バナナが良いと聞けばバナナを買いに走り、このストレッチが肩こりに効果があると聞けば、ひたすら同じストレッチを繰り返すことで束の間の安心を得ようとします。
「これは危険だからやめましょう」もまったく同じですね。
そんなふうに、わたしたちは小さな頃からいくつもいくつも「どこかの誰かの正解」を刷り込まれていきます。
みんな違う身体と心を持っているのに、です。
わたしは「ぶれない」という言葉を見聞きするたびにモヤモヤしてしまいます。
安定するのかもしれませんが、可能性の伸びしろが消えてしまうようなイメージです。
グラグラ揺れるからこそ「どうしたら安定するのか」「なぜグラつくことを嫌がるのか」……たくさんのことに気づくことができる。病気も不幸だと考えればそこまでですが「なぜこんなことになったのか」に始まり、「なぜ病気になると不幸だと感じるのか」「どうして治そうとやっきになるのか」と止まることなく問い続けることができれば、理解が深まり病を超えることができます。
「ぶれない」とは答えが出てしまっているということ。
それは思索や探求とは真逆の態度のような気がするのです。
あらゆるものが流転するこの世界で「ぶれないでいる」なんて不自然だなー。
「答えがひとつということはないんだよ。物事は多面的な要素で成り立っているんだ」
恩師がいつも仰っていた言葉を思い出します。
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